EMERAUDE ARCHITECTURAL LABORATORY CO,LTD. 
 

子供たちが「凄い!」と言った

小見山 健次 Kenji Komiyama


「赤城颪(あかぎおろし)」の季節

大陸のシベリア高気圧から日本列島に向けて吹く風は新潟と群馬とを分ける山岳地帯にぶつかって上昇気流になります。それは日本海側に大雪を降らせる一方、山を越えることで水蒸気を失い、乾いた、強く冷たい北風に変わって群馬側に吹き降ろされます。この風は「空っ風(からっかぜ)」とか、赤城山方向から吹きつけるために「赤城颪(あかぎおろし)」と呼ばれ、土地の持つ個性、いわば「風土」として人の暮らしに大きく関わり、様々な民俗を育んできました。土埃を舞い上げ、凍えるほどに冷たく吹きつけるだけに忌み嫌われ、嘆かれながらも、実は群馬県民にとっては〈お国自慢〉のひとつにもなってきたのです。


日本最古の歌舞伎舞台

「空っ風」の吹き荒れる町、赤城町(群馬県渋川市/旧赤城村)はこの秋、しばらくぶりに大いに燃えました。「全国地芝居サミット」の会場になったからです。晩秋の赤城で二日間にわたって繰り広げられた子供歌舞伎や地芝居一座の公演を、述べ3,000人もの人々が楽しみました。そもそもこの赤城町三原田地区には日本最古といわれる回転機構を持った木造の廻り舞台が現存しています。僅か30坪にも満たない小さなお堂のような建物ですが、宮大工の名工と謳われた永井長次郎の手になる複雑なからくり仕掛けを持った実に珍しい舞台建築なのです。この舞台が建立されたのは文政2年、およそ200年も前の江戸時代に遡ぼります。最初に立てられた隣村から、三原田の地に移築されてからでも125年といいます。

かつて農村歌舞伎(「地芝居」)は農閑期の農民にとっては冬の娯楽の最たるものでした。地芝居を演じる農村歌舞伎舞台は30年ほど前の調査記録によりますと全国に1,000棟、群馬県内には72棟あったといいます。でも今では群馬に残る舞台は数えるほど。いや、事実上皆無と言うべきでしょう。この廻り舞台は50年ほど前に国指定の重要有形民俗文化財に指定されています。空っ風の吹く頃、かつての赤城に暮らした人々はここでの公演を楽しみにしていたことでしょう。しかし面倒な手間隙を必要としたが故に、この舞台も時代と共に次第に使われなくなり、老朽化だけが進みました。複雑な回転機構の操作や桟敷作りの技術も伝承されないままに時間だけが流れて来たようです。ようやくまともな維持管理が実施されるようになったのはつい10数年前からのこと。当時の大修理を機会に地区の住民が伝承委員会を組織するに至ってからのことなのです。


「幻の舞台」

舞台を動かすこと、そしてその舞台を使って公演するのには肝心な観客席(桟敷)作りが不可欠で、それぞれが実に大変な作業なのでした。舞台は回転するだけでなく、奈落から屋根裏に向かって六メートルほどせり上がります。この二方向の動きを心棒の付いた滑車とロープとを組み合わせた3次元的な仕掛けで実現しているのです。なんと、僅か十数メートル四方の舞台下の奈落(=地下)の石組みの中に30人もの人たちが潜り込み、寄ってたかってギリギリと回転軸を回します。同時に屋根裏に登っている20人が滑車に巻きつけられたロープを引き、舞台を上昇させます。さらに袖(そで)と裏(うら)では20人、外には30人の人たちが…。

たった数人が演じる舞台を動かすために裏方では100人もの人たちの力が必要なのです。そのうえ800人から1,000人を収容する「桟敷」の、巨大な木造アーチ屋根を造るには2ヶ月の期間と、延べ1,200人もの人の力が必要です。直径二十センチ、長さ15メートルもある杉の大木を左右から湾曲させて骨組みを造る作業も、プロの工事業者に依頼するなどというものではなくて、全て地元に住む180軒の住民たちが構成する伝承委員会のボランティア作業によって実施されています。僅か2日間の公演のために、こうしたとてつもないエネルギーが必要な舞台であることがこの「廻り舞台」の特徴であり、「幻の舞台」といわれる所以なのです。

「人が感動してくれたらそれで十分」

地芝居サミットに合わせた桟敷建造工事で4代目伝承委員長である須藤明義さん6 8歳に聞きました。「オレがもの覚えがついてからでは今回で5回目の建造になるかなぁ…。」、「図面なんてもんは無いよ。じいさんやおやじから語り継がれてきた技(わざ)だから俺たちにしか造れないんだ。」、「2ヶ月掛けたって桟敷の命は2日でおしまいさ。終わったらぱっと壊して燃やしてしまう。粋でいなせな江戸文化ってやつだよ。来てくれた人たちが感動してくれたらそれで十分だね。」、…そんな一言が実に印象的で、名言のように心に残ります。

子供たちの「歌舞伎クラブ」

そんな大人たちの熱いエネルギーは子供たちにも浸透し始めています。「おじいちゃんが歌舞伎舞台を造るために働いているのを見て凄いと思いました。だから私もそこで演じてみたいと思ったんです。」、「歌舞伎舞台って格好いいです!」等々…。動機は様々ですが、かく言う出来事は10年ほど前からにわかに巻き起こってきていました。子供たちによる歌舞伎クラブが各地で結成されつつあったのです。赤城町の中学校には「歌舞伎愛好会」が、隣町には小学生による「子ども歌舞伎クラブ」が…、と。それぞれに歌舞伎を愛する地元の大人たちの指導の下に「子供役者」たちが晴れ舞台を目指し始めていたのです。もちろん「師匠」である大人たちは伝承を託す気持ちも手伝って真剣です。歌舞伎のカの字も知らなかった子供たちだからこそ一層厳しいゲキが飛ぶ稽古場。そんな大人たちに怒られながらも、上手くなって舞台に立ってみたいと願う子供たちが増えてきたというのです。

大人と子供とのコラボレーション

今回の膨大な大人たちのエネルギーは先に述べた舞台や桟敷に掛けられただけではありません。義太夫の語りから三味線、衣装や化粧、後見など、当日の舞台の脇でも、さらなるエネルギーが費やされました。そうした大人たちの熱い思いに包まれながら演じた子供たちの姿は、ただ微笑ましいだけに止まらず、実に涙ぐましい、まさに感動に値するものでした。
こうした感動を呼ぶ美しさは私の知るところでは能登の八尾市で行われる「おわら風の盆」もそうです。唄い手、囃子方、太鼓、三味線、胡弓のそれぞれがおわら節独特のハーモニーを奏で、「踊り手」はそれに合わせ町中を流して歩きます。楽器の奏者は、三味線を除き少数派で、「唄い手」も良いところ寿命1 0年といいます。しかし「囃子方」はいわば「コンダクター」。独特の節まわしや唄や踊りの知識も必要とあって、誰にでもできるものではないのです。付け焼き刃的にいくら知識ややり方を習得しても、独特の音や情緒は醸しだせないそうです。長年、八尾の土地に住まい、そこで生活し、八尾というものが体に染みついて初めてそれができるのだといいます。そんな「囃子方」としての年季の入った大人たちの声に包まれながら若い女性たちがその演奏に合わせて静かに踊ります…。実に美しく素晴らしいものです。

「思い」を肌で感じる

そんな大人と若者とのコラボレーションは、どんな世界でも本当に小気味よく、気持ちのいい、美しいものです。感動を覚えます。今回の地芝居での出来事もまさにそうでした。どちらも欠けてはならない存在でした。大人と子供の両方がいて始めて素晴らしい舞台が繰り広げられるのです。人を感動させるものは、そんな互いの真摯な関係なのだと思います。大人たちの真剣な思いを感じてくれた子供たちに拍手でした。私たち大人は、そんな思いを子供たちに肌で感じてもらえる存在であり続けること。それが今一番大切なことなのだと思います。